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好きと得意は別の話というか別の次元。

【-10- 電話機は煙草の夢を見るか?|ディスレクシア・カタルシス(10)】

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 規定数値より3つ多いだけだが、分類では健常児ボックスに分けられることになった私は4歳を過ぎて“普通”の幼稚園に通っていた。

 幼稚園。それは人生で最初に通る社会の交流場。「会社にはスーツ」「学校には制服」のように、この交流場にも「ドレスコード」があるならば、私は最初に弾かれる客だった。

 当時、私はアレルギーを抱えていた。食べ物や動物のアレルギーは無いが、唯一強く反応したのが「ハウスダスト」、つまりホコリである。少しでもホコリが舞うと鼻や喉の気道がパンパンに腫れて、咳、くしゃみ、よだれ、鼻水が止まらず、さらには眼球の血管が広がって赤くなる「アレルギー性結膜炎」まで発疹した。

 それに加えてひどいアトピー性皮膚炎まで併発し、身体中のほとんどが掻きむしりによる内外出血という噴火のせいで地表は黒に近い赤紫色へと変わり果てていた。

 ここまでをまとめると、鼻水とよだれ垂れ流して、血眼で「お、お、お」と発しながら、ただただ園内を徘徊する荒れた赤紫肌の幼稚園児。もはやB級ホラー映画に出てくる山奥の研究所から逃げ出した「幼児型ゾンビ」としか思えない状態だった。

 ご存じの通り、ホコリは地球上どこでも舞っている。のどかなアルプス山地の大草原でもホコリは元気に舞っている。南極点ならば凍結するから舞っていないが、調子に乗って深呼吸すると肺と気道が凍傷する。つまり平地にいる限り、私は「徘徊」するのだ。正直に言ってゾンビを不快に思わない人種はいない(どんなB級ホラー映画マニアでも現実問題になると話が変わる)。いくら入園の書類審査で通ったとはいえ、その園内には私を不快に思う人の数は多かった。

 もちろん人など襲わない。ただ花壇の端にいるアリの行列を見ているだけだ。登校直後からお弁当の時間を飛ばして下校時間まで、ひたすらアリの行列を見ているだけ(母いわくアリの行列に異常すぎる関心があった)。そんな状態だからか、幼稚園から早退命令の電話がよく家にきた。そのだいたいの理由は「お子さんの目が赤いから」。

「それはホコリのアレルギーであって、よその子に伝染りませんよ」

「いやぁ…分かってます、分かってますよ。でもねぇ、『よその子の親たち』が言ってるんですよ。とにかく『伝染るんです。』ということで今から迎えにきてください」ガチャ

 反論の余地を与えないためか、そういう対応は異様に早かった(あと不条理すぎるからあれはギャグ漫画だったんだと信じるためにオマージュを込めた)。

 私を不快に思ったのは園児や先生だけではない。園児と先生の合わせた数よりも多い『親たち』が最大の敵だった。

 もし今読んでいる画面前の読者が映画かゲームが好きならば、これは大人数で一体のゾンビを撃退する『(不)愉快な作品』なんだと想像してみよう。そうすることで殺伐とした環境にも少しばかりの娯楽性が生まれて、少しは居合わせた大人たちの気持ちが分かると思う。撃退される側の私は主観的に見て1ミリも分かりたくないが。

 早退した日や休日の私はビデオテープに録画したドラえもんサザエさん、ディズニー、バックスバニーなどをよく観ていた。ただ、キャラクターの台詞や細かいBGMを理解できず、しかも長く続くと耳に不快なので「音量0」にして『アフレコ収録前の口パク映像』を観ていた。

 横から母が怒ってリモコンで音量上げると「おおぉぉ! おおおおぉぉぉおおぉ!」と叫びながら、リビングのテーブルに頭を叩きつけながら、そして千切れそうなほど耳を塞いでいた。私からしたら正体不明の雑音が不規則に変化しながら何十時間も耳元に付きまとう感覚だった。自力で外せないヘッドホンを付けられ、法則性がない雑音をひたすら聞かされたら誰だって気が狂う。

 このように今なら豊かな語彙や例えを使って訴えることができるが、当時の私は最初から言語の概念を持ち合わせていないから叫ぶことでしか訴える手段がなかった。

 いくら私が少数派とはいえ、私は私なりに正当な訴えをしているのに周りはそれをくみ取ることができず、むしろ私の唯一が間違っていると疲れた視線で事実を突きつけてきた。

 気持ちを正直に叫べば叫ぶほど周りが離れていく。そして言葉は分からないのに空気を読むことはできるから、そこから察する漠然な疎外感と否定感が自身を蝕んで、それが嫌で嫌いで耐えられなかった。

 言葉が苦手な私にとって一番嫌いだったのが電話だ。姿の分からない相手から分からない音を勝手に飛ぼされて、ああどうしようかと対処に困って少しばかり悩むと勝手に怒鳴られる。私にとって利便性など見いだせないし、抱えた障害をより追い込むだけの機械でしかなかった。

 そんな私の元によく電話をしてくれる人がいた。関西に住む大正生まれの母方の祖父だ。

 私たち家族は関東に住んでいるから滅多に会えない。だから、この電話が「孫との貴重なひととき」だった。

 とは言っても私がこうだから、隣にいる母に「おじいちゃん元気ですか? 僕は元気です!」みたいなセリフを教えてもらい、それに似たような発声をたどたどしく一言で終わらすだけの遠目からしたら会話とは呼べない会話を祖父と孫との間だけでしていた。

 ちなみに祖父は私が生まれつき重い言語障害を抱えてる事を知っており、そして受け入れてくれている。なので、私がどんなに下手くそでも「そーかーそーかー!」と優しく見守ってくれていた。

 ここまでの雰囲気で言うと、ヴェ〇タースオリジナルのCMに出てくる暖炉前のロッキンチェアに座る笑顔が優しいお爺ちゃんをイメージするが、実際はそうではなかった。

 祖父は地元でも“どんな悪環境な工事でも確実にこなす”と評判の自営の水道修理工だった。

 だけど性格と口調が極限に荒れており、家族や部下の作業員たちに怒鳴る・殴る・蹴る・角材や鉄工具でボコボコにする・気にくわない近所の人たちやケチをつける相手先とよく揉めては重めの喧嘩するという仕事面を除けば完全に危ない人だった。

 しかも金銭関連にはドが付くほど大変厳しく、請け負った仕事の支払いは小切手厳禁かつ金額関係なく現金払いのみ。そして働いて稼いだ給料は家計にあまり入れず、当時何人も抱えていたお妾さん(経済的援助を伴う愛人)にほとんど注ぎまくり、そのお妾さんたちもよく事務所兼家屋に遊びに来ていた。さらに付け加えると普通に家族がいる目の前に堂々と笑顔で遊びに来て、時たま一緒に茶の間でご飯を食べていた。

 あえてもう一度書くが、家族がいる目の前に堂々と笑顔で遊びに来て、時たま一緒に茶の間でご飯を食べていた。

 この頭と胃が狂いそうな異常すぎる環境に家族は誰も文句を言えなかった。なぜなら「俺の気に入った女だから家族は喜んで迎い入れろ」と祖父からの命令だからだ。この家屋の絶対的君主である祖父への反論は一切認められていない。反論を言うものなら、先ほど事務所兼玄関で妾に吠えたという理由で鳴けぬほど金槌で滅多打ちにされた事務所の番犬(母が道端で拾った子犬が成長した元野良犬)みたいになるからだ。

 家の茶の間で楽しげそうな父(祖父)とお妾さん、その隣でただひたすら黙って暴力に耐える妻(祖母)、良くも悪くも世渡り上手な性格でお妾さんと楽しく話す腹違いの長女(伯母)、激情な祖父とは対極に常に周囲に怯えて大人しく震える病弱な次女(母)、これが母の実家であった。

 このように色々と曰くが付きまくった地元でも恐れられた人だった。

 先ほども書いた通り、母は生まれつき病弱な体質で、幼少から熱をよく出しては頭と胃を痛めていた。そして自我が強いわがままな女が好きな祖父はそんな母を執拗に怒鳴っていた。

 ここからは少し弁解に入るが、大地主の子息だった祖父は少学生のときに父(曾祖父)が急死し、旧制小学校を主席で卒業したのに進学予定だった旧制中学校の夢も諦めて、日夜働けど安い賃金の仕事ばかりを渡り歩いてきた。そんな中で時代は第二次世界大戦へと突入し、赤紙を受け取った祖父は南方へと出兵し、激戦の中で奇跡的に帰国した。久々に帰った地元は空爆でやられた更地で、以前あった日雇い労務すら困難な状況へと陥っていた。一時GHQに奪われた所有の土地らは我々に返還されず戦後のどさくさで誰かの物になった。そんな中で祖父は親戚がやってた興味のない水道修理工の元で働かせてもらい、汚く辛い下積み時代を過ごし、最終的には全財産はたいて買った猫の額ほどの土地にて自分の看板を持つ事に成功した。

 そんな状況下で過ごしてきたせいか、人よりも自己防衛心が強いんだと思う。だからと言って、「ハイそうですか」と許される話ではないが。

 それから祖父は年齢も重なって、さらに自営の水道修理工だから跡継ぎが欲しかったのだが、子が姉妹で男の子に恵まれず、看板も名字も継げれなかったので、将来姉妹のどちらかが次男を産んだら祖父が「養子」として引き取り、名字と看板を継ぐという約束があった。

 そしてその条件を満たした唯一の次男が『私』。

 母も最初そういうつもりだったが、難産の末で私を産んで、いざ当時の約束が現実味を帯びてきたとき手元を去る恐怖に襲われたそうだ。

 祖父は何となく感じ取っていたのか「もうええ」と当時の約束を棄却した。それでも待望の男の子もあってか私たち兄弟を可愛がってくれた。そして一言だけの私の電話が終わると祖父は母に毎回言っていた。

「いいか、綿飴はな一生懸命戦っとんじゃ! 言葉が遅くても叱るんじゃないぞ!」

 そのセリフに母は

「(あんた昔アタシに“ウスノロマ”と怒鳴ってたやろ)」

と内心ツッコんでいたが、誰かに心を配れる人になったことに驚きつつ、少しずつ嬉しくなったようだ。

 そんな祖父は私が16歳の夏休みに亡くなった。細かい部位は忘れたが末期のガンだった。父方の祖父と母方の祖母は私が生まれるずっと前に亡くなっているので、この母方の祖父とが人生で初めての「お別れ」だった。

 時系列で始めた日記のルールから反するが、この支えてくれた16年間には本当に感謝している。

 ここまで書いといてアレだが、実は私は祖父の「ちゃんとした顔」を知らない。いや、何というか、正しい表現で書けば覚えていない。私が幼稚園児の頃までは毎年帰省していたのだが、あまりにも幼すぎたから悲しいほど記憶が曖昧なのだ。

 それから約10年のブランクを経て、私たちは再会する事になった。祖父が亡くなる3ヶ月前の集中入院を知らせを聞いたからだ。正直に言って、これが「最後の挨拶」になるから。

 関西の病室で寝る久々の祖父の姿は長いチューブが何本も繋がれ、小さく痩せこけており、若干の認知症も混じっていたから家族と他人の識別も曖昧だった。

 これが私の記憶に唯一残る「祖父の顔」。

 たぶん本当はこんな顔じゃない。そんなこと百も承知だが、本当に申し訳ないことをしてしまった。

 その後に祖父のいない実家へと立ち寄ったのは今でも覚えている。猫の額ほど敷地に立つ狭い家だが主人公がいない家は無駄に広かった(その直後に取り壊して、とっくに土地も売って、ストリートビューで帰ってみると今も雑草だらけの空き地のままだった)。

 これらの事は今でも町中を歩くと不意打ちに思い出すことがある。そのスイッチとは擦れ違ったオッサンから漂う苦いタバコの匂い。祖父は超が付くほどのヘビースモーカーで、家の中もタバコの匂いが染み着いていた。

 そして、これは後々頭を整理して分かったことだが、数少ない幼少期の記憶の中に、帰省で祖父の元に向かう新幹線の車内で充満するキツいキツいタバコの匂いがあった。

 まだ社会的に分煙や禁煙が無かった時代だったからだが、しかしこれほどのキツい匂いは当時でも新幹線ぐらいだった。

 つまり小さい私にとって「タバコの匂い」→「おじいちゃんに会える」と自分なりに記憶を定着させていたんだと思う。世間では嫌われる匂いも、私にとっては嫌いになれない匂いだ。

 一応言っておくが、私はタバコ吸わないし一生吸う気もない。そういう意味で「嫌いになれない」のだ。そのかわり線香の匂いが凄く好きである。どうやら根本的に煙の匂いが好きなようだ。

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【あとがき】

 とにかく若い頃から相当にモテた祖父だが、母の話によると当時から勝新太郎にそっくりと黄色い噂だったらしい。

 荒々しい男の背中・色気・渋い顔・恰幅の良さ、何より仕事に対する妥協なき職人気質。

 昔から「アンガールズ2人を足して10倍濃縮させた男」と言われた私に1%でも何か分けてほしかった…。

 また10倍アンガの真っただ中だった16歳のとき、クラスメイトにウチの祖父が喧嘩っ早い水道工だったと話した時に「おまえのじいさん、マ〇オかよ」とツッコまれた。

 そんな〇リオの公式年齢は「26歳前後」。

 小さい頃から遊んできたマリ〇ブラザーズ。未だに身近な存在の彼たちも今では結構な年下。

 信じない、信じないよ、信じたくない…。