休日のデパートとか出掛けると極稀に自分にとって目に留まる人を見かける。
「とても品の良い人だなぁ」
「着ている服装が素敵だなぁ」
「本当に美味しそうに食べるなぁ」
そして私はその相手に少しだけ惹かれるのだ。
でも、それは相手が女性にだけ起こるわけではなく男性にでも起こるし、そういう恋愛対象としてどうこう的な話ではない。普通に一人の人間として惹かれるのである。
そういうとき、まず私は何故その人に惹かれるのかから考え始める。もしかしたら単純に好みな顔だったとかあるかもしれないが、それなら上のような回りくどい感想は抱かない。つまり何かしら別の理由があって相手に惹かれるわけだ。
「背筋がスッと立ち上がってる姿に品を感じる」
「自分の着たい服を着こなすセンスが羨ましい」
「目の前にある食べる味わう楽しみを知ってる」
そのときによって生まれる理由は様々だが、そこから相手の品格とやらを見いだして相手を尊敬して、もしそれ以上のものを感じるようであったら、私はその相手のファンになったと認識するのだ(当日すれ違った人にそこまで感じたことないが)。
一般的にはアイドルや歌手、小説家など自分とは遠い世界の人に抱く感情なのだが、もし友人や恋人、先輩後輩など身近な人でもその人に尊敬の念を抱いていたら、自分はその人のファンなのだ。
そして問題はここからで、自分が誰かにそう感じるように自分は誰かからそう感じられたことはあるのか。誰かの中に自分がいたことがあるのかどうか。
人間生きている間はなるべく愛されたいものだ。道端の犬猫とかなら比較的高い確率で愛されるけど、家族以外の言葉を発する系のものにはまだ愛されたことはない(逆に道を歩けばセミやカナブンから突然ハグされるし、蚊においては好きすぎて血まで吸われる)。
このように人より経験値の少ない道を辿ってきたのだが、ただ一度だけ異性から顔をまじまじと見つめられたことがある。あれは高校生ぐらいのとき、学校の帰りに晩ご飯の買い物する母と待ち合わせして、スーパーで買ったものをテーブルでビニール袋に詰めていたとき、向かい側から幼稚園ぐらいの知らない女の子が私の顔をジーッと見つめていた。最終的には向かいのお母さんが荷物詰め終わって手を引っ張られても私の顔を見つめていた。
横にいた母も気づいていたらしく「良かったじゃない、一目惚れされて」とまで言ってきた。あきれて「一回りも下の子に惚れられても大して嬉しくないわ」と返すと、「でも同じ年齢が運命の人とは限らないからねぇ」と急にメルヘンなことを諭してきた。
自分より一回りも下の人と付き合う人はどういう人なんだろう。
幼少期に見たアニメも遊んだゲーム機も違う人と対等に付き合える神経など残念だが私には持ち合わせていない。だけど将来あの子が何かしらの形で再び出会えたのなら、紛れもなくあの子は童話のヒロインだ。
我が家に着いて、キッチンに買い物袋を置いてからリビングで座って休憩し始めたとき、エアコンのリモコンを持った母が私の顔を見つめながら私を呼んだ。
「ちょっと、こっち向いて」
今日はどうした、やっと魅力が開花した日か。
「あんた鼻クソ付いてるわよ」
……。
ほじったら取れた。
鼻クソかよっ!!
前半素敵そうな教え書いてからの後半クソ展開。
クレームつけたいかもしれませんが当時気づかないまま半日過ごしていたのだから、その分の対価で目をつぶってください…。
現実「愛するより愛されたい」という逆キンキキッズ現象が人の本音にあると思いますが、全員から愛される方法って実は簡単です。
今の世の中は愛されたい願望の人(受動側)がほとんどだと思います。もし世の中を狭い部屋にした場合、誰も話しかけようとはしません。そこに誰にでもフレンドリーな愛する人(能動側)が現れたらどうでしょう。
誰かから愛されたい気持ちは人として当然の気持ちで、何もおかしいことではありません。もちろん世の中には、そう苦しむ人を誹謗中傷する悪人がいますし、苦しいからこそ手を握ってくれる心優しい善人もそれ以上にいます。だけど、その気持ちに漬け込んで貴方の弱い手に自分の都合を握らせる悪魔がほとんどです。
悪魔を見抜くことは大変難しく、希少な善人の顔を忠実に再現した仮面を被っています。だから誰が仮面なのか誰も分からないし、ただでさえ冷静でない弱った心で識別するのは困難です。
けれど唯一仮面を見抜く方法があります。仮面は心が空腹な貴方に魚を与え、真の善人は空腹な貴方に釣りを教えます。
もし今の貴方が空腹なら私は貴方を救えません。顔も名前も知らない貴方を救いにいくなど出来ないからこそ一人で生きていける手段をここに書きました。それがせめてもの釣りの教えです。